ショーンのストーリー

はじめに

 

 

この話はショーンズクラブの私の目的と夢を説明するものです。 私はこの話を伝えることで同情を得ようとしている訳でも、寄付を誘おうとしている訳でもありません。 どう捉えられるかは読まれるあなた方次第です。しかしながら、一人の子供がどんなに戦って今日私たちといるようになったのか、そして私を含め彼の周囲の人々の人生をより良いものとしていったのかを伝える素晴らしい話ではあります。 Seanが Sean として生まれていなければ、私はこんな話を書くこともなかったでしょうし、このプロジェクトも立ち上がることはなかったでしょう。私が今まで人生でしてきた良いこと全ての中で、このプロジェクトは一番尊いものだと思えています。 私は優しく背中をさすってほしい訳でもなく、賞賛が欲しい訳でもありません。けれど、ちょっとしたお金は頂けたら嬉しいです!! 頂いたそのお金がこのチャリティーの活動を支えてくれます!!

この話を伝えることが橋渡しとなり、同じような状況の方々への助けとなることを願っています。一度かけられた橋は決して壊れることはないでしょう! ダウン症候群の子どもの親だけでなく、障害を抱えた子どもの日本の親が直面しているハードルへの周囲の意識が上がることを願っています。 私はショーンズクラブを立ち上げるきっかけとなった学者フォレスト ヴィクラフトからのこの引用句を自分自身でよく繰り返し口ずさんでいます。

:「 今から100年後には私の銀行預金が幾らだったかとかどんな家に住んでいたかとか、どんな車を運転していたかなどは何の意味もなさないだろう、、、しかし、私が子供の人生において重要であることによって世界は変わるだろう。」

 

これからこの話を書き出すと思うと既に感情的になってきます、、、、

 

誕生日は 2008 年 8 月 5 日

 

2008年8月5日の美しい朝、予定日の約1ヶ月前に私の妻は陣痛がきてお腹の中のショーンと愛育病院の分娩室に向かいました。妻は日本の医者です。ショーンの姉である私たちの第一子目の時も愛育病院で出産しましたが、初めてのことに私自身が興奮し血圧が高くなる感じがして少し早めに愛育病院に向かったことを覚えています。

愛育病院では皇族の方も出産していましたし、日本で一番良い産科病院の一つと思われました。

愛育病院にて妻は超音波検査を含め種々の妊娠中検査を周到にされてきました。その結果は全て良い結果でした。

ショーンが産まれた時は産声が出、出産チームのスタッフからは、とても元気な赤ちゃんで、全て大丈夫です、と告げられました。—それを聞いて何と安堵したことでしょう!— 全て大丈夫、全て大丈夫!!

その言葉がその15分後には変わりました。

医者が、大丈夫というのは間違えであり、赤ちゃんは心臓や呼吸に異常があるし、恐らくダウン症候群だろうと告げて来た時には、私は倒れそうでした。この衝撃はそのままに、すぐに医者は赤ちゃんとお母さんを救急車で近くの広尾日赤病院に搬送し、赤ちゃんをICUにて治療する、と話し、そしてその後直ぐに妻と赤ちゃんは行ってしまったのです!!

 

私は、その日のその医者のベッドサイドマナーの無さや、妻の入院用のスーツケースを持ち、一人で愛育病院の外で立っていたことを決して忘れないでしょう。可哀想な妻のその時の表情や妻の目の中の苦痛が今でも私を苦しめます。

とにかく、私はPTSDになるものを感じながら 、広尾日赤病院の ICU に向かったのです。この移動で私たちの旅は終わりませんでした。2008年8月11日ショーンは榊原記念病院に移ることになりました。

私の幼い娘の九谷は何が起こっているのか困惑していました。特に産まれてきた弟に会うことを許されないことに娘は戸惑っていました。今思い返すと、この時もっと娘の九谷に配慮してあげられたな、と思います。

オープンハート1、第一回目心臓手術 – 2008年8月14日

ショーンの心臓の問題は、心臓の心房や心室の壁のどちらか一方に穴が開いているASDやVSDではなく、心臓全体を4室に分ける心内膜床が完全欠損していることでした。心臓に開く穴という点では頻度は少なく、宝くじを当てたようなものです。 ショーンは気管軟化症とも診断されましたが、これについてはあとでまた話します。

2008年8月14日、ショーンは心臓の血管の一部を修復する一次救命手術を受けました。 根治的な心臓修復手術のためにはショーンはまだあまりにも弱く、小さかったのです。

その後2ヶ月間、ショーンは榊原記念病院に入院しました。

娘の九谷もやっと窓ガラス越しにでも、産まれて来た弟を見られるようになりました。ショーンが生き延びてくれたことに感謝です。

 

ショーンが家に – 2008年10月5日

 永遠に続くと思われたものが終わりました。ショーンはついに家に帰ってきました。私たちは家族の平穏が得られることに非常に喜びました。一方、私たちは私たちのこれからの生活が今までと同様なものでは決してなく、今後も越えて行かねばならぬ山が幾つもあるとも分かっていました。

ありがとう、榊原記念病院!!!

ありがとう、ヌヌおばさん。アイルランドでの仕事を辞めて、僕のママとパパを助けるために来てくれて!

戦いの月日—2008年10月 – 2011年8月

 

それは大分昔のことに思われ、悪い夢のようでもありますが、想起することはショーンズクラブへの私の決意を強めます。

 

人々はしばしばこう言います。「これらのことは私たちを試すためにあるのだ!」と。—私たちは試されたでしょう。しかし、結局のところ、私たちは今ここにいます。ショーンを死なせなかったものは、彼と私たちをより強くした、と 私は思っています!!!

 

哺乳ができないショーンに栄養を与えることがこの戦いの月日の中で最も困難な課程でした。彼の鼻の穴から胃の中に管を入れる際に、気管に入らぬように注意して行うのは、ひどく神経を使う経験でした。 多くの医療従事者などは、親は結構容易にこの作業に慣れて来るものだと言いますが、私自身は毎回困難に感じました。写真が全て物語ってくれるでしょう! とにかく、ショーンの体重は増え、9ヶ月後にはついに哺乳瓶から栄養を取り出しました。時々、私たちは何のチューブがいつ、どこにあるのか混乱してしまいました。 見てみましょう – CPAP、BIPAP、胃チューブ、酸素マスク、酸素鼻チューブ、吸入器などなど。

死の呪文マスク

ショーンは、気管支が特に気流の増加中に部分的に収縮してしまうような、気管支が柔らかい状態である気管軟化症にも苦しんでいました。 これは気管が収縮して呼吸不全を引き起こすという瀕死の状態を生じさせます。

私は今でも覚えています。ある日私が仕事から帰宅した時に、妻がショーンにマウストゥマウスの口蘇生術をしており、その時ショーンの顔色は文字通り真っ青でした。

これに対する治療は、機械的換気(継続的陽性気道圧のCPAP、または二段階陽性気道圧のBiPAP)での管理から気管ステント留置および外科手術と幾つかありました。

私たちは、CPAP対応の方が危険性が少なく、適切に施行すれば、マスクが着用されて気管に圧力がかかり続ける間に気管が発達し、治癒率も高いということを考慮し、CPAPを選択しました。 マスクは常時着用していなければならず、それには心が痛みました。

私の娘はショーンの管やマスクにとても同情していました。

ショーンが12ヶ月のこの頃のダイビングにてタイタニック号を見つけなかったことは述べておきたいです;-)

CPAPは100%成功し、ショーンは現在健康な気管を得ています。

オープンハート2、第2回目心臓手術 “Pretty in Pink” – 2010年1月29日

 私たちはこの日がいずれ来るべきことを一年半にわたり常に思っていました。外科医が私たちに手術のことを話し、それが不可能なことのように思えたことは忘れません。 ショーンがこの手術を無事終える確率は五分五分でした。 私たちは希望がないようにも思いました。世界中のすべてのお金でもってしても、自分の息子が対峙していることは変えられないのです。絶望感が襲い掛かり、絶え間なく続く不安と不信で一杯でした。

私はショーンが生き残れるならば代わりに私の命を持ち去っても良いと神に頼みました。- 私は息子が手術を経て生き残るためならばどんなことだってしたでしょう。

12時間に及ぶ手術後、私たちはショーンの手術が90%成功したと告げられました。私は90%とはどんな意味なのかをその時は聞きさえしませんでした。ショーンは生きているのです。

私がリカバリールームに入ったとき、手術チームは、彼らが成し遂げた事を見てください!とでもいうようにベットの端に一列に並んでいました。 私は彼ら皆にキスできそうでした。

私はショーンを見たとき、すぐにショーンの頬と唇が生まれて初めてピンク色であることに気づきました!  それまで灰土色だったのです。

改めてもう一度 — 榊原記念病院に感謝!!

ショーンは2010年3月に家に帰ってきました! もう一つの山を登りました!!

小さい僕!!!

Mini Me!!!

弟が生まれる — 2010年8月3日

述べ忘れていましたが、この間、私の妻は3人目の子供を妊娠していました。 妻が家族全員の礎となり、私を含む家族全員のためにどんなに絶え間なく世話をしてくれ、私が如何に誇りに思っているかを言葉で言い表すことはできません。

第3子目を持つことは幸せでしたが、過去の愛育病院での経験もあり、とても不安でもありました。今回の出産時には愛育病院は使わず、より近代的な広尾日赤病院を選びました。幸いなことに、ロビーは何の問題もなく生まれました。

今日、ダウン症候群の子供たちの平均寿命が延びていることを考えれば、私たちの死後のショーンの未来も考えなければなりません。ショーンの 周りに兄弟がいることは、私たちの死後にもショーンへのケアがなされてくれるだろうと思われ、私たちの気持ちを少し楽にしてくれました。これらのことには現実的でなければ!!

ロビーと九谷はショーンに素晴らしくしているし、私は二人をとても誇りに思っています!!

最悪の冬 — 2010 – 2011

ショーンの心臓手術後の冬は厳しいもので、ショーンは様々なウイルスにかかり、ついにはロビーの体をも危険にさらしました。そして遂に二人同時入院となりました。 私たちは、その年の春の訪れと、すべてのものからの回復を祈っていました。私たち、特にボーイズに必要でした。

ようやく春が来て、ショーンの健康は躍進しました! その夏、ロビーは1歳でショーンは3歳でした。 流れが変わり、この3年間程の間で初めて私たちの生活は穏やかなものになりました。 ショーンはカレーが大好きになりました!

日本の保育園 – イエーイ! – 2012 – 2013

 

ショーンの健康が大きく改善された今、教育ニーズに対応する時が来ました。 彼の3年間の病気を考えると、ダウン症のない子供でさえも、学習障害が生じるでしょう。 彼の健康面を考慮すると、特別な支援を要する児に対応できるスタッフや施設を持たない政府の保育園に限られていました。 そこにただいるだけとは言い切れないかもしれませんが、日本は、特に初期段階の発達における特別支援教育において西洋の国々よりもとても遅れているということに気づきました。

この時点で、私はダウン症候群の子供を持つことに付随する烙印と、学習と身体の障害を持つ子どもへの理解が日本の社会でどのように欠けているのかを本当に気付き始めました。

公正に言って、幾つかの早期学習特別支援学校がありますが、人口3万人の都市には対応できないでしょう。 これらの学校に通うことを希望する子供の両親のための周囲のサポートの問題もあります。 両親のうちの片方、通常は母親が自分のキャリアを諦め、基本的にはその人生を子供の援助に捧げることが当然のことと見なされています。

ショーンの発達がそれほど遅れているのが、それまで絶え間ない医療ケアが必要だったせいか確信が持てませんでした。そして、そこでほとんど習得していないとの思いに至るまでは、地元の保育園について前向きに考えていました。子どもの発達を支援する政府の姿をよく表わしています。これらの保育園には特別な支援発達プログラムはありません。 私たちはショーンが助けを必要としていたことに気づくのに数年を費やしましたが、ショーンの教育のためにどこで支援を受けるか、何をすべきかわかりませんでした。 私はこのことを早期に認識できなかったことを息子に謝罪するほかなく、彼が健康でいて、彼が健康でいてくれるだけで私たちが家族として喜んでいたことも責められる面があるでしょう。 しかし、言い訳は言えません!!  私は英国には支援の全てがそろっていることを知っていたのですから。

ショーンの空虚な表情、活気のない目を見ることが私には最も辛かったです!

私たちはようやくショーンといくつかの素晴らしい家庭生活を持つようになりました。 – 九谷とロビーは素晴らしかった!!  とても幼いロビーでさえ、ショーンが問題を抱えていて、パーソナルケアプログラムを開始するのが良いことを分かっているようでした。

2014年に私たちの周りは色々と衝突し、私と妻はショーンを英国の特別支援学校に通わすことに決めました。 私自身と共に九谷を2ヶ月間、ロビーを6ヶ月間移行の助けに一緒に連れて行くこととして、私たちは英国に向け日本を出発しました。

私たちには、ショーンを助けられる支援策がいくつかありました。ショーンは英国のパスポートを持っており、英国に家もありましたし、資金等もありました。日本の他の家族が皆同じようにできるわけでもないですし、だからこそSean’s Clubを日本で立ち上げることが大切だと思いました。

私は、子供と一緒に英国の特別支援教育を経験した他の裕福な日本の家族が日本に戻らなかったことを知っています。

 

英国の特別支援「スパーク」 – 20146 – 20166

ショーンと一緒に英国で過ごした間、私は、目的のために体が動かされているように感じられていました。ショーンと私だけで過ごしたことにより、彼の人生と世界がどんななのかを本当に理解するようになりました。 私はショーンを助けるためにとても急いで色々と学ばなければなりませんでした。 ショーンの学校への通学準備を事実上6週間でしなければならなかっただけでなく、ショーンの医療的ケアやショーンを英国の医療制度に移行する方法をすべて学ばなければなりませんでした。

私はまず、薬の形状、器具などが英国にてとても進んでいる事に驚きました。 子供の液状心臓薬、小児用呼吸器、チュアブル錠など。

ショーンの投薬時間を日本での投薬法で45分程もかかっていたのを、英国の投薬法にては5分とできました。 私は英国の医療資源で学んだことを普及することを試みて行くつもりです。それはとても素晴らしいもので、日本の医師である私の妻もその年のクリスマスに訪れたときに驚いていました。

ショーンはアントリムのリバーサイド特別支援学校に通学しました。ここは、最も熟練したスタッフ、特別支援用の教育用具およびプログラムを備えた特別支援教育の要となっている学校です。 スピーチ療法と感覚プレイは、英国の特別支援教育において重要な役割を果たしており、全ての教育機関と児童発達センターのような政府の保健機関との間にはしっかりとした連携があります。

日本での私の全ての経験と比較するのは難しいですが、英国の制度は身体障害と学習障害のある子供らの両方において発達していると言えると思います。

私は今まで以上の時間をかけて英国の教育資源面についての記載をしていこうと思っています。

次のページは、このスパークがショーンにどんな変化を起こしたかについてです。 – その変化があなた方にも伝わると嬉しいです。

もう分かりましたか?

どうです?

もういいですかね?

イギリスの皆さん、ありがとう! 児童発達センターのアリソン・リヴィングストン先生、リバーサイド支援学校のキャロラインとほかスタッフ全員、カウンティ・ホールのマレーネ・アダムス、送迎担当のアンドレア、そして何よりも英国での初めの一年間私​​を助けてくれた私の母と父に、そして、私が2015年に日本に戻ったあと暫くショーンを見守ってくれた私の妹のダーラに感謝します。

2014年の4月に、父の誕生日のために何かを描くように私に頼んだのは母でした。このとき最初にSean’s Clubという概念が私の頭の中に浮かびました。

これが私の父のバースデーカードに描いた絵です! この絵、見覚えありますよね?

日本の特別支援 – 2016年9月

ショーンは2016年7月に日本に戻ってきました。 – ワアーイ!! 彼は戻りましたが、その帰国にはショーンズ・クラブが続くと私は誓いました。

2016年9月、英国からのスパークを得たショーンは、日本の特別支援小学校に出発しました!

彼の世界は英国での経験で変わりました!!

他の子供たちがそれぞれ彼等自身のスパークを得る手伝いをすることを、是非手伝ってください!!

つづく…….

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